2006年1月15日 (日)

雨シリーズ終了

 2年越しのシリーズになってしまいました。
 クリスマスのお話だったので、昨年度中に仕上げたかったのですが、ついずるずると。
 仕事で1日パソコンに向かっているので、平日は、家で長時間画面に向うのがどうも苦痛で(←言い訳)
 この雨シリーズは、昔、ワープロを使っていた時に書いたお話で、手元にプリントアウトした原稿しかなくて、それを元にワードに打ち直したのですね。改めて読み直すと、なんとも気恥ずかしくて、ちょっと手を加えました。
 それでも、最後のお話は、ちょっと長めですね。
 途中で切るところがなくて、そのままUPさせてしまいました。
 読みづらくて、すみません。
 あんまり長文ってブログ向きじゃないですねー。
 
 とりあえず、今回のシリーズはこれにて。
 そのうち、また気まぐれのように、更新していくつもりですので、気長にお待ち下さい。

 
 
 

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今、手の中に、降る雨

 2年ぶりに訪れたその場所に、あの公園はもうなくなっていた。
 閑静な住宅街も、こじんまりした雑貨屋もその場にはあったが、公園そのものはなかった。ただ、コンクリートの灰色の道がずっと続いている。所々に残る濃い影は、滑り台かブランコの跡だろう。どうやら、ここは公園ではなく、きちんと整備された道路に変わるらしい。
 僕はまだ残っていた花壇に腰を下ろすと、途中の自動販売機で買った缶コーヒーを開けた。暖冬とはいえ、さすがに手袋なしでは手が冷たい。僕はまだ暖かさの残る缶を両手で包み込んだ。そんな僕の前を、人々が通り過ぎていく。公園はなくともここは街へと抜ける一番の近道なのだ。高校生のカップルが腕を組みながら歩いている姿に、今日はクリスマスイブだということを実感する。大学のサークルでも、今日クリスマスパーティを開いているが、どうも気が乗らない。どうせ、うまいこと彼女を見つけられなかった男達が、大騒ぎするだけだというのは、去年で経験済みだ。そんなお祭り騒ぎは、うんざりだった。
 そう、去年、僕はここに来なかった。夕帆と約束したのは、もう2年も前の話なのだ。毎年、クリスマスはここで会おう。2人の最初のクリスマス、僕達はそう約束した。なのに、翌年には、もうその約束は守られなかった。
 高校最後の日、暖かい彼女の笑顔の魔法に架かり、僕達は付き合い始めた。その魔法が解けたのは、いつだっただろう。夕帆は、自分の内側にいくつもの自分を持っていて、ころころ表情が変わった。それは僕を飽きさせず、僕は夕帆に会うのが楽しみだった。そんな夕帆が変わったのはいつだっただろう。夕帆は、あの天使の微笑みさえ、僕に見せなくなっていた。
 僕自身も大変な時期だったのだ。父がいきなり不況の影響で解雇された。一時は学費の問題で、このまま大学に残るか、家庭内で何度も話し合った。結局、アルバイトでしのぐことになり、僕は時間に追われるようになった。必然的に夕帆に会う時間も少なくなった。
 今思えば、夕帆も何かを悩んでいたのだろう。しかし、その時の僕には、彼女の表情を読む余裕はなかった。夕帆の魔法が消えたことに気が付いた時、彼女はもうそばにいなかった。突然、留学したのだ。高校時代の友達にそう聞いた時、僕は怒りを感じた。確かに連絡は途絶えていたけれど、なんの相談もなく留学するなんて、あまりにひどい話じゃないか。クリスマス休暇には戻ってくると聞いていたが、僕は、約束のこの公園に行かなかった。僕に黙って留学した彼女を、許せなかったのだ。
 去年、夕帆はこの公園を訪れたのだろうか。その時、まだここに公園はあったのだろうか。僕はポケットから煙草を取り出した。夕帆がいなくなってから、僕は煙草を吸うようになっていた。煙と一緒になら、思い切りため息がつける。憂鬱な時、考え事をしている時、なんとなく煙草に手が伸びるようになっていた。煙と共に、いろいろな思いを吐き出しながら、僕はぼんやりと通り過ぎる人々を眺めた。
 何故、今日、僕はここに来ようと思ったのだろう。父の再就職先も決まり、一時期よりはお金に困らなくなっていたので、今はがむしゃらにアルバイトをする必要もない。朝から何もやることがなくて、僕はなんとなく外に出た。12月の空は青く澄み渡っていて、気持ちが良かった。目的もなく街に出て、ショーウィンドーのクリスマスツリーを見て、今日が約束の日だと思い出したのだ。自然と足はここへ向かった。今更、ここへ来ても、もう遅いというのに。
 ふうっと大きく息を吐いたところで、自分の目の前に、誰かが立ち止まった。息を飲むような気配に、僕は顔を上げる。見覚えのある濃紺のコート。それに映えるような、真っ白い傘。この天気に、傘?僕は顔を上げた。
 「ごめんなさい。待った?」
 どきっとする。そこには夕帆が立っていた。太陽を背にしているせいか、冬の淡い日の光が彼女を包み、まるで柔らかい羽があるように見える。そして、彼女はあの頃と変わらない、天使の微笑を僕に投げかけていた。
 僕は、彼女から目を離すことが出来ず、じっとその笑顔を見つめていた。
 「遅くなっちゃった。傘が見つからなくて」
 夕帆はそう言うと、僕の隣に腰を下ろした。
 「遅くなったって・・・」
 僕はようやく口を開いた。
 2年前、曖昧な約束はしたけれど、公園のどことも時間も決めていない。僕が今ここにいるのは本当に偶然なのに、夕帆は当然のように僕の隣に腰を下ろし、僕の顔を覗き込んでいる。まるで2年のブランクなんてなかったように。
 まだ、どきどきしている僕をよそに、夕帆はふと空を見上げた。
 「雨の匂いがする」
 つられて、僕も空を見上げる。いつのまにか、あんなに青かった空に、うっすらと雲がかかっていた。白にほんの少し黒の絵の具を落としたような、淡いグレー。
 2年前と同じ空の色だ。
 夕帆の言葉を聞きながら、僕は思い出した。
 それはあの時と同じ言葉だ。
 「降水確率は20%だったけど?」
 僕は慎重に言葉をつないだ。
 夕帆は嬉しそうに笑うと、白い傘を持ち替えながら、ゆっくり口を開く。
 「でも、ところにより雨って言ったでしょ。あたしがいる所っていつもところによるんだよね、何故か」
 いつのまにか、そこには公園が現れていた。錆びた滑り台もブランコもあの当時のままだ。砂場には近所の子供が忘れていった赤いシャベルが転がっている。
 ここは2年前のあの日なのだ。
 僕は自然とその風景を受け止めていた。
 「雨、か」
 僕は呟いた。
 確かに、あの時、雨は降ったのだ。優しい雨が僕達に。
 「これは、夕帆の、魔法なのかな」
 僕は呟くように言った。
 「あたしの魔法?」
 夕帆は楽しそうに肩を揺らした。
 「まさか、そんな筈ないじゃない」
 「え?」
 僕は驚いて彼女を見た。夕帆は真っ直ぐ前を見据えていた。その横顔はとても意志が強くて、僕ははっとさせられた。ここにいるのは2年前の夕帆じゃない。あの時の幻のような彼女ではない。
 「あたしは魔法使いじゃないわ。残念ながら」
 そう言うと、僕の方を振り返って微笑む。その微笑みは、当時の笑顔ではなかった。もっと、落ち着いた大人の微笑み。
 その笑顔にどきっとした拍子に手が脇に置いてあった缶に触れ、そのまま道路に落としてしまった。
 思いがけず、コーンと大きな音が響き、僕はあわてて缶を拾い、顔を上げてはっとした。公園はなくなっていた。驚いて空を見上げる。どこまでも抜けるように深い青空。雨の降る気配はない。
 あれは、僕が見た幻だったのか。
 「煙草、吸うようになったんだ」
 夕帆は下に落ちていたライターを拾いながら言った。
 「え、ああ・・・」
 僕はそれを受け取りながら、軽く頭を振った。
 昔を懐かしむように繰り返したあの時の言葉。幻の中で蘇ったあの日の光景。
 僕は、自分が本当は感傷的なのだと気が付く。
 昔に戻りたいと思っているのは、僕の方ではないだろうか。
 彼女は、僕が煙草を吸い始めていることに、何の違和感も抱いていないようだった。2年も経てば変わるのは当たり前。そんな口調だった。今を直接受けて止めている。
 偶然出会った僕に「待った?」と当然のように声をかけた。
 僕がここにいることを知っていたのではないかと思わせる表情。それは僕には2年前の彼女が現れたかのように思えたが、夕帆は違うのだ。確かに夕帆の中には2年間の歳月がある。僕が2年もここで待っていたわけではないことを、彼女は知っている。夕帆は、今の僕に会いに来たのだ。本当は、僕の方が2年前の夕帆に会いたかったのだ。
 「雅己君、変わってないね」
 「そうかな」
 僕は、自分の心が見透かされたような気がして、夕帆から視線を外した。
 「夕帆は変わったね。大人になったよ」
 そう言うと、夕帆は驚いたように僕を見つめた。
 「そんなことないよ。あたしはあの頃と何も変わってないもの」
 夕帆は自分の姿を見下ろした。そして、深いミルク色の傘を抱きしめるように持ち直す。
 「この傘はお守りなの。今日、雅己君に会えるようにって。これがあれば、2年前に戻れるんじゃないかなんて、夢みたいなことを考えてた。ううん、違うわ」
 夕帆は自分の言葉に首を振った。
 「考えてたんじゃない。久しぶりに夢を見たの」
 「夢?」
 「うん。天使の夢」
 夕帆が小さな頃から見続けていたという、天使が出てくる夢。あれは今思い出しても、不思議な幻だった。夢の中に出てくるといういろいろな表情を持つ夕帆を、僕は一瞬の間に見た。天使はその中の一人だ。
 「天使のいる湖に雅己君の姿が映ってた。だから、もしかしたら、今日雅己君がここに来てくれるんじゃないかと思ったの」
 夕帆は淋しそうに笑った。
 その淋しそうな笑顔を覚えている。夕帆に最後に会った日だ。それを見て、僕は夕帆の魔法が解けたのだと思った。
 お金というこの上なく現実的な問題にぶつかっていた僕には、夕帆の話は絵空事にしか聞こえなくて、いらいらしていた。夕帆はいつも夢みたいな話ばかりしていて、それが腹立たしかった。現実はもっと厳しいのだ。夢の中では生きていけない。僕は彼女にそう言った。夕帆は僕の顔を真っ直ぐ見つめ、淋しそうに笑った。
 そして、彼女は、僕の前から去った。
 「雅己君、夢の中でじゃ生きていけないって言ったでしょ。あたし、ずっとそのことを考えてた。それまで、あたしはいつもいろいろなことを空想してた。あの夢の中に現れるいろいろな夕帆があたし自身だと思ってた。でも違うの。あたしがあの夢に縛られてたの。あの夢から解放されないと、あたしは夢の中から抜け出せなくなってしまう。このままここにいたら、あたしは安心できる夢の中でしか生きていけない」
 「それで留学したの?」
 「それもあるかな」
 夕帆はそう言うと、僕に向かって頭を下げた。
 「黙って行ってごめんなさい。本当は相談しようと思ったんだけど、雅己君も大変な時期だったし」
 「謝らなくていいよ。僕も自分のことしか考えていなかったから。夕帆の気持ちを汲み取る余裕なんかなかった」
 そういう時期もあるだろう。ほんの少しのすれ違いが、大きな歪みを作ってしまう。僕が夕帆に惹かれたのは、夕帆の持つ魔法の力だ。それは夕帆の夢から生まれるものだ。僕はその夢を否定してしまった。だから、夕帆の魔法が解けてしまったのだ。
 「夕帆はその夢と生きていけばいいんだ。それが一番夕帆らしいんだから」
 僕がそう言うと、夕帆は顔を上げた。
 「夢の中で生きるんじゃなくて、夢と一緒に生きればいいんだ。努力すれば、夢はいつか現実のものになる。そうしたら、また新しい夢を見ればいい。夢を叶えていくたびに、人はもっと大きくなる」
 僕の言葉を静かに聞いていた夕帆は、ゆったりと笑った。
 そして、僕の方に手を差し出した。そこにぽつんと雫が落ちる。驚いて空を見上げると、所々に綿菓子のような雲の固まりが浮いていた。
 「天気雨?」
 「みたいね」
 夕帆が笑った。
 「ほら、私がいる所って、いつもところによるでしょ」
 「夕帆は雨に好かれているんだな」
 「うん。雨はあたしの味方なの。いつもあたしに優しいのよ」
 夕帆は得意げに言った。
 「夕帆、この後、予定ある?」
 僕は彼女に尋ねた。
 「ううん、ないけど」
 夕帆は首を傾げた。
 「じゃあ、久しぶりにいつものコース、行ってみるか」
 そう言うと、彼女はきょとんとしたように僕を見た。
 「雅己君こそ、予定あるんじゃないの?」
 「約束だっただろ。クリスマスイブにここで会おうっていうのは」
 僕はそう言うと、夕帆の白い傘を受け取り、それを開いた。もちろん雨はさほど降っていない。それこそぱらぱらという程度だ。しかし、傘に当たるぽつんぽつんという雨の音は心地よかった。
 「雅己君、去年、ここに来たの?」
 夕帆がおそるおそるというように尋ねる。
 「夕帆は?」
 答える前に僕の方も尋ねた。
 「去年は傘が見つからなかったの」
 「僕も、去年は幻の夕帆を見なかったよ」
 僕の言葉に夕帆は安心したように笑った。
 「この道を歩くのは久しぶりだわ」
 夕帆は傘から抜け出すと歩き始めた。その足取りは軽やかで、まるで天使が飛んでいるようだ。
 僕は傘を閉じた。夕帆は夢から抜け出したのだ。今度が僕が現実から少し夢に近づく番だ。ぽつんと僕の頬に雨が当たる。それは思いのほか、暖かかった。
 僕は手を伸ばす。手の中に雫が落ちる。
 今、手の中に、降る雨。
 それは、ほんの少し甘くて、ほんの少し苦い。夢と現実が入り混じった味がする。
 「雅己君、どうしたの?」
 僕より、ほんの少し未来を歩いている夕帆が振り返った。そして、極上の天使の微笑を投げかかる。
 そして、僕は夕帆の魔法に架かる。

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2005年12月24日 (土)

雨の奇跡

 (雅己くんだわ・・・)
 あたしは戸惑いつつ、真っ白い霧の中をゆっくり歩いてくる彼を見つめた。
 何故、彼がここにいるんだろう。本来、ここは誰もいない場所なのに。
 そう、ここには彼女以外、誰もいない筈なのに。
 これが夢だということを、あたしはわかっていた。小さな頃から見続けてきた、いくつかの夢の一つ。美しい白銀の月を、悲しそうに眺めている天使の夢。夜だというのに、まるで昼間だと見紛うほど明るい月光。月が一番きれいに見える丘。そのふもとに蒼い湖がある。天使は、湖に映る月を見ながら、いつも静かに泣いている。
 そこで、目が覚めてしまうのだけれど、その天使はあたし自身であり、あたしが何かを悲しんでいるのだとわかっている。ただ、それが何かがわからず、何故、あたしが泣かなければならないのか、思いつかない。小さい頃泣き虫だったあたしも、高校3年にもなれば、早々泣くことなんてないのに。
 その夢に雅己くんが現れた。
 同じクラスの、足の速い男の子。陸上部に所属していて、400m走では県大会5位の実力を持っている。クラス内では目立つグループにいるけれど、その中でも冷静に彼らのやることを見ているような人だった。それでも、その落ち着いた態度と整った容姿は女の子達を引きつけた。あたしもそんな女の子の一人だった。「彼、格好いいよね」と言ってひそひそやっているファンの一人。
 そんな私の夢に、彼が現れたのはどうしてだろう。
 天使は、驚きながら、彼に話しかける。
 彼もまた、ひどく驚いた顔をしていた。そして、周囲を見回し、ぎょっとしたように叫ぶ。
 「ここは、どこなんだ?」
 その声に、天使も、あたしもどきっとする。
 夢の中にしては、リアルな台詞なんじゃないかしら。
 「月見丘よ」
 天使は、彼の驚き方に少し怯えながらも、あたしに代わって答えた。
 その天使の泣き声以外の声を、あたしは初めて聞いたような気がする。あたしの声に似ているかもしれない。でも、もっと透明感のある澄んだ声だった。
 彼は、混乱したかのように、辺りをきょろきょろ見回してる。
 変なの。夢の中なのに、彼の態度はあまりにも現実的過ぎる。本当に自分がどこにいるかわからないみたいだ。
 第一、普段冷静な彼が、こんなに慌てふためいている姿を見たことがない。
 雅己くん、そんなに驚かなくていいのよ。これは夢なんだもの。
 天使は、そんな彼を手招きすると、湖まで連れて行った。
 「この湖には、あなたが一番見たいものが見えるのよ」
 天使が楽しそうに言った。
 一番、見たいもの?
 それは初耳だった。だって、あなたはいつも湖に浮かぶ月を見ながら泣いていたじゃない。あなたは、風に揺られて時折おぼろげに浮かぶ月が見たかったの?
 風が湖面を撫でる。ざあっと波が押し寄せる。
 湖の蒼が歪む。鮮やかな光が映る。
 湖面に浮かぶ絵。
 『夕帆の魔法だったのかな』
 耳元で、雅己くんの声がした。
 どこの公園だろう、白い傘を手にしている雅己くんの隣を歩いているは、あたしだった。傘に雨がぽつんぽつんと当たる。その度、傘の端から雨の雫が跳ねる。
 『あたしの魔法?なあに、それ』
 あたしが彼に話しかける。
 どうして、あたしが彼と一緒に歩いているんだろう。あたしは、彼と一緒に歩きたいと思っているんだろうか。それを望んでいるのだろうか。
 鈴が転がるような、涼やかな笑い声がした。
 天使が、楽しそうに肩を揺らして笑っている。心の底から嬉しそうに。
 これが、あなたが見たかった光景なの?
 深い、抜けるように蒼い湖。
 風が走る。月光が反射する。
 ばしゃっと冷たい水が跳ねた。
 はっと我に返る。見慣れた白い天井が目に映る。
 「朝、か」
 あたしはゆっくりと体を起こした。
 湿った空気の匂いがする。
 あたしはカーテンを引いた。
 さあっと霧のように細かい雨が降っている。しっとりと全てを包んでいく、細かい雨。
 雨は嫌いじゃない。でも、やんでくれないかな。
 今日は、高校最後の日、卒業式なのに。
 窓を開けて、外に手を伸ばした。冬と春の狭間に降る雨はまだ冷たい。手の中に雫が落ちる。蒼い雫。天使のいる湖の色に似ている。この雫にも、あたしが一番見たいものが映るのかしら。
 一瞬、雅己くんの影がよぎったような気がした。
 あたしは、雫を払うと窓を閉めた。
 学校へ行こう。朝一番の誰もいない教室へ行ってみよう。もう二度と入ることはない教室。いつもの席から見る最後の景色を心に焼き付けて、さよならしなくちゃ。
 雨はいつでもあたしに優しい。今日を選んで降る雨が、もしかしたら奇跡を呼んでくれるかもしれない。
 雨が誘う。雨が優しくささやきかける。
 家を出ようとして、いつもの濃紺の傘に手をかけてふと思った。
 湖に映ったあたしは、真っ白い傘をさしていたっけ。
 もし、この雨が、卒業式に降る雨が、奇跡を起こしてくれたら。
 真っ白い傘を買おう。
 あたしは、雨の中へ傘を広げた。弾かれた雨が傘から零れ落ちていく。
 雅己くんは、この雨を、今どこで見ているのだろう。

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2005年12月22日 (木)

幻の雨(後編)

 突然、目の前にざあっと流れる砂が現れた。
 驚いて顔を上げた途端、わっと人の波が押し寄せ、僕は無様にもすっころんでしまった。
 全く、今度はなんだというんだ。
 僕は手を付いて立ち上がろうとしたが、その手が、ずぶずぶと砂に埋もれてしまった。
 柔らかい砂が手の間からこぼれ落ちる。空を見上げると、そこには大きな太陽がさんさんと輝いていた。今まで感じたことのない強い光。まるで砂漠の中にでもいるようだ。
 その時、前方からわっと歓声が上がった。
 人込みの向こうに、淡いピンクの布で覆われた輿のようなものが見える。
 僕はあわてて人込みを掻き分けると、一番前まで割り込んだ。
 ラクダの上の輿に、女の子が優雅に座っている。周囲の人々に笑顔を振り撒き、花びらのように手をひらひらと振っていた。
 やっぱり、という言葉を飲み込んだ。
 夕帆だった。現在の年齢より5つくらい下だろうか。アラビア風の柔らかいシルクの衣を身にまとい、色とりどりの鮮やかな宝石をちりばめたネックレスをしている。
 「光を失っても、笑顔までは失わないとは・・・」
 隣にいた老婦人がそう呟くと、袖で目頭を押さえた。
 「光を失って?」
 僕は老婦人の方を見た。
 「そうとも。姫様は、病気で視力を失ってしまったのさ。なのにごらん、あんなに豊かに笑っていらっしゃる。姫様はこの国の宝さ。どんな苦労があっても、姫様が笑っていらっしゃるかぎり、わしらも笑っていられる」
 「目が・・・?」
 僕は輿の上の夕帆を見上げた。
 ガラス玉のようなその黒い瞳には、なんの映像も映らない。なのに、彼女は優雅に笑っている。夕帆の魔法。暖かな笑顔。僕も魅せられたあの微笑。
 彼女はどうして笑っていられるのだろう。
 あの豊かな笑いはどこから来るのだろう。
 その時、夕帆がゆっくりとこちらを向いた。
 僕は彼女の瞳を見た。
 黒曜石のような瞳。濃い黒はどこまでも深く、どこまでも広く。
 何も映さないガラス。黒は闇の色だ。何も見えない、暗闇に通じる色だ。
 光を見つけなければならない。光がなくては、僕達はどこにも行けない。
 早く光を探さなければ。
 「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
 足元から声が聞こえた。
 見ると小さな女の子が膝を抱えて座っている。その頬には涙の跡が光っていた。
 「夕帆?」
 僕は彼女の目の高さまで腰を落とした。
 「泣いてたの?」
 僕の問いに、夕帆はこくんと頷いた。
 もう夕闇の迫った、小さな公園。ブランコの柱の影で、夕帆は泣いていた。
 「みんながね、いじめるの。あたしは泣き虫だから仲間に入れてくれないの」
 耳を澄まさなければ聞こえないような小さな声で夕帆が言う。
 「お兄ちゃんはどこに行くの?お兄ちゃんの行くところには、あたしのお友達になってくれる子はいるかな」
 お友達、という言葉に夕帆の力が入った。
 『昔はいじめられっ子だったのよ』
 いつか彼女がそう言っていたのを思い出す。じゃあ、ここは、15年くらい前の過去の世界なのか。
 僕は辺りを見回した。住宅街の中にある児童公園。ブランコと滑り台と砂場しかない、本当に小さな遊び場所。もう日が暮れたせいか、人の気配すらない。
 「お家に帰らなくていいの?」
 僕は優しく尋ねた。
 彼女は小さく首を振る。
 「また泣いてたのってママに怒られる」
 夕帆は頬の涙をごしごしこすった。
 「女の子は泣いていいんだよ」
 僕はポケットからハンカチを取り出した。夕帆がくれたハンカチだ。それで、彼女の頬を拭いながら、僕はゆっくり言った。
 「女の子は泣くからきれいになるんだよ。涙が、悲しいこともつらいことも、全部流してくれるんだ。だから、泣きたい時は泣いていいんだよ。その後、きっと君はもっときれいになってる」
 きょとんとしながら、夕帆は僕を見上げた。
 「これ、あげる。このハンカチいっぱいに涙が流れたら、その時は笑おうよ。そうすれば、楽しいことがたくさんあるよ」
 夕帆は僕が差し出したハンカチをぎゅっと握った。
 こくんと頷きながら、それでも夕帆はまだ泣き続けていた。
 この先、未来の分まで、全ての涙を流すかのように。
 夕闇にぽつんと金色の星が浮かんでいた。瞬きして、不思議そうに僕達を見下ろしている。一つだけ淋しそうに西の空に浮かぶその星は、僕に何かを問いかけているような気がした。
 「一番星か」
 あれはなんていう星だっけ?
 ふとそんなことを考えた時。
 激しい銃声が辺りに響いた。
 はっとして振り返ると、目の前に大きな馬の足が見えた。
 蹴られる!?
 僕は思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。
 しかし、僕の上に落ちてきたのは馬の足ではなかった。どさっと重量感のある音がし、馬は甲高い声を上げながら狂ったように走り去っていく。
 とりあえず蹴られなかったことにほっとして、僕は音がした方に目を向けた。
 そこには黒い鎧を付けた人が倒れている
 「え!?」
 僕はあわててその人を抱き起こした。兜を外してみて、またはっとする。
 その人は女性だった。そして、やっぱり夕帆だった。
 女の身で戦いに?
 「おい、しっかりしろ」
 彼女を揺さ振ろうとして、僕は手を止めた。胸の辺りから、赤い鮮やかな血が溢れるように流れている。
 「嘘だろ」
 まさか、夕帆が死ぬ現場に居合わせるとは。
 自然と体が震えだした。
 夕帆が死ぬなんて、そんな馬鹿な。
 「う・・・」
 彼女が小さく呻いた。
 「夕帆!?」
 僕が叫ぶと、彼女はうっすらと目を開いた。
 「殿は・・・?」
 彼女が囁くように言う。
 「殿?」
 僕は周囲を見渡した。向こうに広い川原が見える。そこでは、武士達が戦っていた。刀の噛み合う音。矢の飛ぶ風。火縄銃の煙。そして、血の匂いがした。
 沸き立つ歓声が響き、黒い鎧の集団が勝鬨をあげているのが見て取れる。
 「大丈夫、勝ったみたいだ」
 僕が言うと、夕帆はほっとしたように吐息した。
 「よかった。私、守ることができたのね」
 ため息のような声でそう言うと、夕帆は目を閉じた。
 彼女の息が細くなる。
 「夕帆!?」
 胸の血は止まることなく流れ続けている。
 赤の鮮血。鮮やかな真紅。目に焼き付く色。
 夕帆はこのまま死んでしまうのか。
 赤は血の色、生命の色。
 目の前から、赤い命がぽとんと落ちた。
 「椿は花ごと落ちるからいけないね」
 ぽつんと淋しい声が聞こえる。
 顔を上げると、縁側の籐の椅子にゆったりとおばあさんが座っていた。
 「そこのあなた、足元の椿を拾って下さいな」
 僕の足元には鮮やかな赤い椿の花が転がっている。僕はそっと花を崩さないようにそれを拾うと、おばあさんに手渡した。
 「この椿は私がこの家に嫁いできた時に植えたものでね、私と一緒に、この家で生きてきたのですよ」
 おばあさんは楽しそうに笑った。
 確認するまでもなかった。僕にはこのおばあさんも夕帆なのだとわかっていた。椿の花を大切そうに手で包み、彼女は僕を見てにっこり笑う。
 「首が落ちるようで不吉だと言う人もいますけど、私は椿が好きですよ。最後の最後まで、美しい姿で落ちていく。決して、自分の弱みを見せない、そんな強さが私と通じるのかもしれませんね」
 彼女の微笑みは、年をとっても変わらない、魔法の微笑だった。
 僕を引き付ける、不思議な微笑みだ。
 自分の弱みを見せない強さ。夕帆はそういう子だった。
 愚痴も言わない。いつでも挫けない。諦めない。
 皺の刻まれた手の中で、椿はいまだ堂々とその姿を留めている。
 燃えんばかりの鮮やかな赤もそのままに。
 「おや、雨が降りますよ」
 空を見上げながらおばあさんが言った。
 「雨の匂いがする」
 つられるように僕は空を見上げた。
 「ホワイトクリスマスだなんて、あまりにできすぎよ」
 はっきりとした声が耳に飛び込んできた。
 目の前で、真っ白い傘を持った夕帆がくすくす笑っている。
 「夕帆?」
 僕は目を瞬かせた。
 僕の前には、正真正銘、本物の、現在の夕帆がいる。
 「どうしたの?」
 夕帆が不思議そうに僕の顔を覗き込む。
 「いや、なんでもない」
 僕は首を振った。
 「ふうん?」
 夕帆は曖昧に頷いた。が、いつもの笑顔に戻ると、また前を向いて歩き出す。
 僕はそんな彼女の背中を見つめた。
 今までの光景はなんだったんだろう。
 いろいろな夕帆がいた。
 僕の知らない彼女の姿に、正直戸惑ってしまった。
 あれは全て夕帆本人だったのか、それとも僕の幻だったのか。
 「どれが本当のわたしかわかった?」
 「え?」
 はっとして顔を上げると、一番最初に出会った天使が、極上の笑顔を称えていた。
 「どうしたの?変な顔してるわよ」
 夕帆、だった。
 「あ、ほら、雨よ」
 細い雨が、夕帆の髪に肩に落ちてくる。夕帆は傘を広げた。
 「夕帆の魔法だったのかな」
 僕は彼女から傘を受け取りながら呟いた。
 「わたしの魔法?なあに、それ」
 夕帆はきょとんとして僕を見上げる。
 たくさんの表情を持つ夕帆。どれが本物かなんてわからない。
 夕帆は、この笑顔で魔法をかける不思議な女の子だ。
 傘に落ちる雨の音が大きくなる。この雨も夕帆の魔法なのかもしれない。

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2005年12月18日 (日)

幻の雨(前編)

 「雨の匂いがする」
 僕より3歩未来を歩いている夕帆が空を仰ぎながら、呟くように言った。
 「え?」
 つられて僕も空を見上げる。空は、白い絵の具に黒をほんの少し落としたような、淡いグレーの雲に覆われてはいるものの、決して雨の降る気配は感じられない。
 「降水確率は20%だったけど」
 僕は夕帆の背中に向かって言った。夕帆は後ろ手に彼女お気に入りの真っ白い傘を持っている。濃紺のコートにその白が映えていて、より鮮やかに見えた。
 「でも、ところにより雨って言ってたでしょ。わたしがいる所って、いつもそのところによるんだな、何故か」
 夕帆はくるっと振り返ると、にこっと笑ってみせた。僕が初めて夕帆の魔法にかかった時と同じ微笑みだ。
 高校の卒業式の日。朝一番に学校へ行って、この3年間の思い出に浸ろうなんて、柄にもなくセンチメンタルな気持ちで教室に入ると、そこにはすでに先客がいた。窓側のお決まりの席に座り、彼女はいつものようにぼんやりと外を眺めていたのだ。僕の気配に気が付いて彼女はふっとこちらを振り返った。そして、まるで天使のように僕にふわっと微笑みかけた。まさにその一瞬に、僕は彼女の魔法にかかってしまったのだ。
 クラスで特別目立つ存在ではなかった夕帆に、思わず「卒業してからも会えないか」と尋ねてしまったのは、やはり彼女の笑顔の魔法だと思う。彼女は、僕がそう言うのを予想していたかのように、驚きもせず頷いた。
 あれから僕は彼女の微笑みに巻き込まれてしまった。彼女のペースから抜け出せなくなってしまったのだ。
 夕帆は不思議な子だった。高校時代は、普通の平凡な女の子に見えたのに、一歩外に出ると、全く違っていた。いや、何が普通で、何が普通でないか、なんてわからないから、夕帆にとってはそれが普通なのかもしれない。でも、彼女には戸惑わされることが多かった。
 例えば今日だってそうだ。12月24日。言わずとしれたクリスマスイヴだ。この時期の街やテレビでの騒ぎようを見れば、クリスマスは女の子にとって大事な行事なんだということぐらい承知している。だから、今日はディズニーランドでも、高級レストランでも、どこへでも付き合うつもりで、バイトもしてきたのに、夕帆が指定したのは「いつもの公園」だった。
 その公園は、表通りの喧騒から離れた閑静な住宅街の間を横切るようにある。公園というより散歩道という感じだ。
  その脇に時折洒落た洋館や、小さなカフェ、雑貨屋などがあり、夕帆お気に入りの場所だった。
 気張っていた分、いつもの公園でいいと言われた時、ちょっとがっかりした。でも、夕帆はいつもの笑顔で、
 「わたしはここが好きだから」
と言った。夕帆らしかった。彼女には、イルミネーションで着飾った街より、こういう静かな公園の方が似合う。
 「雨、か」
 僕は再び空を見上げた。
 「もし、本当に雨が降って、そのまま雪にでもなったら、正真正銘のホワイトクリスマスだな」
 そう言うと、夕帆の傘に目を向けた。
 真っ白い傘。透き通るような白ではなく、重たいミルク色。深い雪の色。
 夕帆のイメージカラーは白だ。
 白い色のイメージが目の前にさあっと広がる。
 さながら、濃い霧のように。
 「誰?」
 鋭い声が響き、はっと我に返った。
 辺りは真っ白い霧で覆われている。その向こうに白いスカートがふわっと揺れた。
 「誰って・・・」
 僕は焦った。
 白いスカートの少女が近づいてくる。
 今日の夕帆のスタイルは白い服じゃない。濃紺のコートの下には、茶系をベースにしたワンピースを着ていた筈だ。
 霧の向こうにはっきりとした輪郭が浮かぶ。
 「天使・・・?」
 思わず呆然と彼女を見つめた。
 広い額も、ふっくらした頬も、全てが夕帆のものなのに、その背中には大きな白い翼が見える。
 「ここは私の秘密の場所なのに、どうしてあなたが?」
 澄んだ声が耳に響く。
 「秘密の場所?」
 僕はあわてて周囲を見渡した。
 霧が風に流されて、辺りは次第に晴れてきていた。そこは、どこまでも続く緑の草原。
 「ここはどこなんだ!?」
 思わず叫ぶように言った。
 僕は、夕帆といつもの公園にいた筈だ。
 「ここは月見丘よ」
 僕の大声に怯えてか、天使は少し声を震わせながら答えた。
 「月見丘?」
 一体どういうことなんだ。僕は何度も目をこすった。しかし、情景は変わらない。辺り一面、柔らかそうな草が僕達を取り巻いている。
 「ここから見る月が一番きれいなのよ」
 僕の動揺を知ってか知らずか、天使はその長くてきれいな指で空を指した。
 空には銀色の大きな月が浮かんでいる。
 「今は夜なのか?」
 月の光が強すぎて気が付かなかったが、空はすっかり濃紺の闇で覆われていた。しかし、辺りは夜とは思えないほどの明るさだ。
 「あなた、どこから来たの?」
 天使が僕の瞳を覗き込むようにして言った。
 「僕は・・・」
 一体、どこから来たんだ?どうしてこんなところにいるんだろう。
 僕の沈黙をどう理解したのか、天使はにっこり笑うと手招きした。
 しばらく歩くと大きな湖が現れた。蒼い湖の上には、空の月がくっきりと映っていて、風に揺られている。
 「見える?この湖にはあなたが一番見たいものが見えるのよ」
 僕が一番見たいもの?
 風が湖面を撫でる。その度、白い波が立つ。その波を「兎が跳ねているみたい」と言ったのも夕帆だ。碧い海の上を跳ねる兎。彼女がそう言うと、僕にも波が兎に見えてくるから不思議だ。
 湖の蒼が歪む。鮮やかな光が映る。
 ばしゃっと冷たい水が跳ねた。
 思わず目をつぶる。
 「ざけんじゃないよっ!顔洗って出直してきな」
 ものすごい剣幕に僕は驚いて目を開けた。
 派手な化粧に、目にも鮮やかな赤いワンピースを着た女性が、バケツ片手に仁王立ちしている。その足元にはびしょぬれの男が二人。その一人が悔しまぎれに何か罵っている声がしたが、僕の目は彼女に釘付けになっていた。
 普段とは似ても似つかない容貌。でも、まちがいなく夕帆本人だ。しかも、本物より十歳くらい年は上だった。
 一体どうなんてるんだ?
 呆然としていると、彼女が僕に向かって手招きした。
 「ごめんごめん。ついかっとしてさ。君にも水がかかっちゃったわね」
 「え?」
 そういえば足元が冷たい。見ると、コートの裾から雫が落ちている。
 彼女は僕を店の中に招き入れた。
 そんなに流行っているとは思えない、小さなバー。今の騒ぎなどおかまいなしで、数人の客は平然と自分のグラスを揺らしている。
 彼女は僕を店の奥へと促した。
 「学生さん?」
 彼女が僕のコートをドライヤーで乾かしながら尋ねる。
 「はい」
 僕が頷くと、彼女は小さく笑った。
 「何も緊張することないわよ。ま、あんなとこ見せちゃったから、怯えるのも当たり前かな」
 「いや、そんなことは・・・」
 僕は彼女を見つめた。いつもの夕帆とは全く違うのに、彼女の表情はあのふわふわした夕帆と同じ顔だった。
 「学生かあ。今が一番楽しい時期よね。ふふっ。あたしもあの頃が一番よかったな」
 僕に聞かせる訳でもなく、彼女はそう呟くと、楽しそうに笑った。鈴が鳴るような笑い声。それは夕帆の声だったけれど、そこには大人の女性という、特別なエッセンスがかけられていて、思わずどきっとした。夕帆も十年したら、こんな風に笑うのだろうか。
 「さ、乾いたわよ」
 彼女はかちっとドライヤーのスイッチを切った。そして、ふと店の方に消えたかと思うと、琥珀色の液体が入ったグラスを手に戻ってきた。
 「水かけちゃったお詫びよ。ただで飲ませてあげる」
 彼女はそう言うと、グラスを差し出した。
 琥珀色に染まったグラスの向こうに、彼女のきれいな手が見える。細くて長い指。そこには銀色の指輪がはめられていた。
 「その指輪・・・」
 それが僕が夕帆の誕生日にあげた指輪だった。十九歳で銀、二十歳で金、二十一歳でプラチナ。この三つの指輪をもらった女の子は幸せになれる。どこで聞いたのか覚えていないが、僕の彼女には絶対プレゼントしようと思っていた。夕帆は遠慮がちに、でも嬉しそうにその指輪をはめた。
 シルバーの細いリング。銀は月の色。砂漠の砂の色。
 光をうけてきらきら輝く。
 しゃらしゃらと、銀の鈴の音がする。

後編に続く・・・

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久しぶりの更新

すっかりご無沙汰になってしまいました。
なかなか、お話が書けず、すっかり更新さぼってました・・・。
一番、私が行動しやすい秋(私は暑いのも寒いのも苦手。適温の幅が狭い)、つい週末のたびに、観劇に行ったり、買い物に行ったり、山に登りに行ったり、あれこれ出歩く機会が多かったのですね~。
ついでに、今年の春から、ゴルフに目覚め、レッスンまで通い始めたので、そっちに夢中になってました。
この運動音痴の私が、ゴルフを、本格的に始めるようになるなんて、誰が想像したでしょう。私自身も、思っていませんでした。
新しいことを始めるって、やっぱり楽しいですよ~。
まだまだ下手っぴいですが、やっと真っ直ぐ飛ばせるようになってきたので、もうちょっと頑張って、来年にはコースデビューしたいなあと。

さて、それはさておき。
新作ではないのですが、この季節をテーマにしたお話なので、載せておきます。書いたのは学生時代なので、ちょっと青臭くて自分でも恥ずかしかったりしますが。
「色」のイメージが伝わるといいなあ。

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2005年9月16日 (金)

夏の終わり

ようやく、朝晩はだいぶ涼しくなり、秋らしい気配を感じられるようになりましたねー。
とにかく、暑いのが苦手なので、ほっとしてます。
秋は、私が一番好きな季節。
食べ物も美味しくなるし。

さて、この辺で、史子ちゃんと隆くんのお話は終わります。
同じ名前使いましたが、全部別の人の設定です。
(←単に名前を考えるのが、面倒だっただけっす)
よく出てきた、「高草山」は実在する山で、静岡市と焼津市の間にあります。
そんなに標高は高くありませんが、夜景は確かにきれいです。
なんて、2~3回しか行ったことありませんが。
でも、本当に、たぬきにはバカにされました(泣)
いきなり車の前に飛び出してきて、びっくりです。
轢かなくてよかった。
仕方なく、たぬきが脇に避けてくれるのを待ちながら、ゆっくり走っていると、本当にくるっと振り返って、車に向かって威嚇されました。
車に牙むいたって、かなわないっつうの!
きっと、車を、何か大きな動物だと思ったんでしょうね~。
ちょっと、ほのぼのした話。

今回より、ハンドルをいつも使っている「夕月」に戻しました。
ブログ立ち上げる際、「夕月はるか」とペンネームらしい名前にしてみましたが、なんだか、自分でもしっくり来なかったので。
どうぞ、よろしく~。

次は、たぶん、また旅物でも書いてみようかなあと思います。
気長にお待ち下さいね~。

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2005年9月10日 (土)

花火

  どうして、日本人は花火が好きなんだろう。
 夏になると、あちこちで花火大会が開かれ、みんなこぞって場所取りまでして見に行くらしい。
 幸い、まだこんなに住宅が増える前は、家のベランダからでも花火が見えていたこともあり、私には、わざわざ花火を見に行く、という習慣がない。だから、みんなが、花火大会を心待ちしている感覚がよくわからなかった。近くで見ると、迫力が全然違うよ、と言う。でも、花火は少し離れたところから見るもの、と小さい頃から思っていたので、わざわざ人込みに紛れて見に行く気になれなかった。
 彼氏でもできたら、一緒に行けばいいじゃない。そう言った友達もいた。
 でも、私の恋は、いつも夏が来る前に終わる。
 秋から冬にかけて、淋しい季節にそばにいてくれた人は、春になると去っていく。
 だから、夏は、私はいつも一人で過ごす。
 まだ日が高い午後、今日の花火大会開催を知らせる花火の音が響く。
 その音が、どこか空しく心を打つ。

 花火大会の日に家にいるなんて、何年ぶりだろう。
 俺は、青い空にたなびく花火の白い煙を見上げた。
 子供の頃は家族で見に行ってたし、中学くらいからは友達と、彼女が出来てからは、毎年の格好のデートの場となっていた。
 なのに、今日は誰とも約束がない。
 あんたが今日家にいるなんて珍しいわねえ。お袋はさも嬉しそうにそう言った。
 どうせ、また女の子に振られたんでしょ。
 全く、答えにくい質問を平気でする。
 じゃあ、お父さんと花火見に行ってくるわね。夕飯の支度してないから、適当に食べて。そう言うと、2人は、さっさと出かけてしまった。息子が一緒に行かなくなっても、毎年、2人で花火を見に行っていたらしい。
 うだるような暑さの中、わざと冷房も付けずに、そのままごろんと横になる。
 子供の頃の夏は、いつもこうだった。
 あんなに汗だくになって遊んでも、ぜんぜん平気だったのに、今ではちょっと汗をかいただけで、もうだるい。
 こんな日に、ヒマを持て余している自分が、なんだか、とてつもなく小さく思える。

 そんな空しさを埋めようと思ったわけではないのだけれど。
 私は、土手に向かって自転車を走らせていた。
 花火大会は、川原で行われる。
 花火にも、やっぱり裏表があるらしい。
 本当は、メイン会場側から見た方が、正面からきれいに円を描いて見えるのだそうだ。
 しかし、会場は、すでに人で溢れ、とてもゆっくり見れたものではない。
 だから、近所の人たちは、だいたい、対岸で見る。
 私も、それにならって、対岸へ向かっていた。
 何故、わざわざ、見に行く気になったのか、自分でもわからない。
 もしかしたら、いつもと違うことをすれば、違う夏になるかもしれない。
 そんな小さな期待を抱きつつ、私は、自転車を漕いだ。

 それにしても、こんなにペダルって重かったか?
 久しぶりに乗るペダルの重さに、俺は、驚いていた。
 高校時代の愛車は、まだ車庫の隅に眠っていた。
 自分の車を買ってから、自転車なんて、ほとんど使っていなかった。おかげで、チェーンも錆付いていたけれど、まだ走れそうだったので、引っ張り出してきた。
 高校生だった時はどこへ行くにも、こいつで出かけていた。あの頃の唯一の足。これには、いろいろな思い出がついて回る。
 あの頃の懐かしい風景を思い出しながら、俺は、川原に向かった。
 メイン会場は、観光客でいっぱいなので、地元の人間は、対岸に回る。途中の屋台で、やきそばとビールを買うと、俺は、毎年見に行く、いつもの場所へと自転車を向けた。対岸からでも、十分、大きな花火が見える。
 まあ、たまには、一人でもいいか。
 やっぱり、この花火大会は、毎年の決まりの行事だ。
 これがないと、俺の夏はやってこない。
 そんな思いに駆られ、俺は自転車を走らせる。
 
 ふいに、どーんと大きな音が響いた。花火大会が始まったのだ。
 空に広がる花火は、想像していたより大きい。
 それに、思いのほか音も大きい。
 メイン会場ほどではないけれど、対岸にも、そこそこ人は出ており、レジャーシートを敷いて、そこで宴会を始めている。
 私は、そんな人たちから少し離れた場所に、自転車を止めた。
 ひゅうっという音と共に、白い筋が空へ上り、一気に細かい光が広がる。
 火の花。なんてぴったりな表現だろう。
 まるで、花が開くように、鮮やかな炎が中心からふわっと広がり、あっというまに闇に飲み込まれ、消えていく。
 ほんの一瞬の儚い夢。
 そんな一時を味わうために、人は集まってくる。

 本当に、日本人は、花火が好きだなあ。
 俺は、宴会をしている集団とは、少し離れた土手に腰を下ろすと、ビールを開けた。
 夜空に広がる花火は、煌々と辺りを照らす。
 空を彩る火の花は、一瞬のうちに色を変え、すうっと闇に吸い込まれていく。
 真っ黒いキャンバスに描かれた、真夏の夜の夢。
 ガラにもなく、そんなフレーズが頭に浮かび、我ながら恥ずかしくなって、頭を振った。
 たかが缶ビール1本で酔っ払ったか?
 ふと、隣に止まっている自転車のそばに佇む女性に気がついた。
 見覚えのある顔。
 すぐに、それが記憶の中にある人物と一致したのは、久しぶりに乗った、思い出がついて回るこの自転車のせいだろう。
 視線を感じてか、彼女が、ふいにこちらに目を向ける。
 一瞬浮かぶ、不審げな顔。
 それが、やがて、懐かしさと親しみに変わる。

 あれは、まだ、これほどいろいろな思いに捕らわれることがなかった高校時代。
 同じクラスだったけれど、ほとんど話をしたことがなかった男の子。
 帰宅途中、自転車のタイヤがパンクしてしまい、困っていたところを、偶然通りかかった彼が、最寄の自転車屋まで一緒に行ってくれたのだ。
 ただ、それだけのクラスメート。卒業してからは一度も会っていない。
 それなのに、意外なほどすんなり、その顔はあの頃の彼と一致した。
 どーんと大きな音が響き、夜空に鮮やかな色彩が広がる。
 これは、花火がもたらした偶然の出来事なのだろうか。
 彼が、私の名前を呼ぶ。
 あの頃と変わらない、深く響く懐かしい声で。

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2005年8月20日 (土)

光の指輪

 基本的に、女性より男性の方が、ロマンティストだと思う。少なくとも私の周りの男性は。テレビドラマの影響なのか、雑誌などの情報のせいなのか、はたまた本気でそう思っているのか、なんにつけても場を整えたがる人が多いような気がする。
 史子は、隣でのんびりと夜景を眺めているように見える隆の様子を窺っていた。
 「今日、夜景を見に行こう」
 そんな電話が入ったのは、会社を出てまもなくだった。
 「え、今日?」
 今日は、毎週楽しみにしているドラマの日なのに。
 とっさにそんな考えが頭をよぎり、史子はあわててもみ消した。
 「なんか用事ある?」
 史子のちょっと不満そうな声音に、隆は敏感に反応する。
 「ううん、大丈夫」
 ドラマはビデオに録ればいいか。
 「じゃ、7時に迎えに行くから」
 隆はそう言うと、電話を切った。
 史子は切れた携帯をじっと見つめた。
 今日は、なんかの日だっけ?
 前にも、こうやって突然電話がかかってきたことがあった。
 普段は、仕事の関係で休日にしか会えないため、平日に、突然会おうと連絡がくるのは、非常に珍しい。喜んでのこのこ出かけたら、いきなり花束渡されて、今日は出会って1年目だね、などと言われてびっくりしたことがある。
 そんなことはすっかり忘れていた史子は、ぽかんとしてしまった。
 そういうことをされて喜ぶ女の子もいるだろう。
 しかし、史子は照れくさいというか、気恥ずかしいというか、そんなロコツな表現方法は苦手なのだ。
 そこで史子はつい、
 「そっかー、もう1年だっけ。よく持ったよねー、ははは」
などと茶化してしまい、隆をがっかりさせた。
 どうも隆を始め、男性達は、女性をある枠にはめ込みたがる。
 どこか、女性はこうあるべき、という考えがあるのだろう。
 だから、きっとこんなことをすれば女性は喜ぶ、と思い込んでいるのだ。
 そこで、史子はいつも困ってしまう。
 現実主義の史子は、男性達のいう「普通の女の子」の枠に当てはまらないらしい。
 記念日に、高価なプレゼントも、素敵なレストランも望んでいない。
 ただ、隆がそばにいてくれたら、いいと思う。普段のままの隆が。
 しかし、どうも、隆は雰囲気というものを好むらしい。
 時々、史子をびっくりさせるような演出を仕掛けてくる。
 そうすると、史子は本当に困ってしまうのだ。
 どういう反応をしていいのか、わからなくて。
 素直に喜ぶガラでもないし、いつもつい気恥ずかしさから、茶化してしまう。
 だから、今日の突然のお誘いに、史子は気構えていた。
 いろいろ考えたが、今日が何の日だったか、さっぱり思い出せない。
 「きれいだろ、ここの夜景」
 じっと隆の横顔を眺めていた史子に気がついて、隆は笑顔を返してきた。
 「う、うん。そうだね」
 史子はあわてて眼下を目を向けた。
 高草山には、初めて来た。
 夜景がきれいに見えることで、この辺りでは知られている。
 こんな小さな街で夜景がきれいに見えるのか?と半信半疑だったが、なるほど、眼下に広がる輝きは確かに美しかった。
 大きな建物がないことも幸いしている。
 目立つのは、中央にすうっと走る東名くらい。
 まるで闇に赤いラインを引いたかのように、車のテールランプは流れていく。
 その両側に、きらきらと、小さな光が瞬いていた。
 その街の向こうに広がる闇は、海。
 月の出ていない今夜は、街からの光を受け、艶やかに漂っている。
 そして、上空には、一面の星。
 だいぶ夜空に星の数は減ったとはいうものの、それでも、細かな光は、空を覆っていた。
 そっか、夜はまだこんなに夜らしいものだったんだな。
 史子は、しみじみと空を見上げた。今でも夜空にこんなに星がたくさんあることに気がつかなかった。
 「はい」
 ふいに、隆は史子の手の中に、何かを押し付けてきた。
 「え、何?」
 史子は、ぎょっとして手の中の小箱を見つめた。白い箱に、紫色のリボンのかかった、ひと目でアクセサリーが入っていることがわかる箱。
 史子はあまりアクセサリーを付けない。どうも、きらきらしたものは自分に似合わないような気がする。
 「開けてみてよ」
 隆がにやにや笑いながら促すので、史子はリボンをほどいた。中からは、シルバーの細いリングをいくつも重ねたような指輪。
 史子はじっとそれを見つめた。
 果たして、この指輪が表す意味は何か?
 「そんなにまじまじと眺めることないじゃん。史子が、指輪なんかしないのは知ってるけどさ」
 何が楽しいのか、隆はさっきからずっと笑っている。
 「えっと、今日は何かの記念日だっけ?」
 史子は恐る恐る尋ねた。
 「まだ、違うよ。でも、これからそうしようと思って」
 そう言うと、隆は小箱から指輪を取り出し、史子の左手の薬指にはめた。驚いたことに、サイズはぴったりだった。よく、サイズわかったね。そう言おうとして史子が顔を上げると、隆はふいに真面目な顔をし、
 「結婚しよう」
と言い出した。
 「え?」
 そんなことを言われるとは、全く思っていなかったので、史子はいつもに増して、きょとんとしたまま隆を見た。
 言葉の意味を理解するまでに、相当な時間を要する。
 「ケッコン、って、えええ!?」
 ケッコンって、私が知ってる「結婚」のことだろうか。
 まさか、夜景を眺めながらプロポーズされる、なんて設定は全く考えたことがなかったので、史子は混乱していた。
 すると、隆は、我慢できないというように、げらげら笑い出した。
 「ほんと、史子のリアクションってわかりやすいな」
 「な、なによ。どういう意味よ」
 不覚にも、顔が火照っているのがわかった。本当に、こういう女の子女の子したシチュエーションは苦手だ。
 「史子、こういうこと、すごく苦手としてるだろ。本当に、困った!って顔するからさ。それが面白くて、いろいろ仕掛けてみてるんだけど」
 そうだったのか!どうりで、時々、とんでもないこと(たぶん普通の女の子なら喜びそうなこと)をすると思った。
 「私のこと、ばかにしてるの?」
 毎回、どういう反応したらいいか、悩んでいた私がばかみたいじゃないの。
 「違うよ。そんなところがかわいいと思ってさ」
 隆はそう言うと、史子の頭を、ぽんぽんと叩いた。
 「でもさ、いつも困ったような顔してたけど、少し嬉しそうなの、自分で気がついてた?」
 「え?」
 そうなのかな。本当に、今でもこんな状況いる自分が、気恥ずかしくて、隆の顔を見てる余裕なんかないんだけど。
 少しは嬉しいのかな。
 ますます、顔が赤くなってきて、史子は、気まずそうに指輪をいじっていた。
 シルバーのリングは、幾重にも重なり、幅の広いデザインになっていて、史子の指にもしっくり馴染んでいた。あまり華奢なデザインは、史子らしくない。そこのところは、隆も知っているようだ。
 隆にやられっぱなしも面白くないので、史子は意地悪したくなった。
 「ねえ、プロポーズの時って、もっと大きな宝石のついた指輪がつきものじゃないの?」
 「そんなに宝石好きじゃないだろ」
 確かに、その通りなんだけど。
 「それに、ほら、こうするとたくさんの宝石が輝いてるみたいに見えるだろ」
 隆は、そういうと、史子の手を、眼下の夜景にかざした。街の輝きが指輪に乗り、きらきら輝いている。
 さながら、街の輝きは、宝石箱のようだ。
 全く、隆はロマンティストで困る。
 素面で、平気でそんなことが言えちゃうんだから。
 「でも、石がついてる指輪の方が高いでしょ。安くすんでよかったね」
 こんな時は、茶化してごまかさないと、言葉がつながらない。
 「ちぇ、金額の問題かよ。全く、現実主義だなー」
 隆はむくれて、史子の手を離した。
 「ところで、今日をプロポーズ記念日にするために、返事、聞かせてほしいんだけど」
 困った。
 こんな時は、なんて答えればいいんだろう。

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2005年8月 5日 (金)

ブルームーン

 携帯電話というのは、ある意味便利だが、物事を軽く薄っぺらいものにしてしまった。特にメールが出来るようになってからは。パソコンのメールは、いちいち立ち上げるのが億劫だったり、画面の前でじっくり構えなければならなかったりと、手間がかかる。その点、携帯は片手で、簡単にメールが打てる。ちょっと連絡が取りたい時などは便利だが、全てこれで片付けるには、あまりに手軽すぎて、そこに気持ちは入らない。
 携帯に届いた彼女からのメールに、俺はため息をついた。
 「こんばんは」というシンプルなタイトル。続く本文には「今までありがとう。さようなら」と短い文章。
 要するに、振られたという訳だな。
 しかし、その無機質な文字からは、彼女がどんな気持ちでこのメールを打ったのか、伝わってこない。
 あまりに拍子抜けするほど、簡単な別れに、実感が沸かなかった。
 本当に、これで終わりなのだろうか。
 すぐに電話をかけなおそうと思って、やめた。
 まだ、会社にいたのだ。
 ようやく仕事が一段落着いたところだった。時計を見ると、もう9時半を回っている。
 もう少し早く終わらせるつもりだったのに。
 ブラインドの隙間から外を見ると、南の空に、ぽっかりと青い月が浮かんでいる。
 真っ暗い闇に浮かぶ、完璧な球体。
 明日には、どこかから欠け始めるのだろうけれど、今日は見事な満月だった。
 あなたは、冴え凍る月のようだと、いつか彼女は言った。
 辺りを、煌々と照らしているのに、その白銀の光に暖かさは感じられない。
 それは、俺が冷たいってこと?
 まだ2人でいるだけで楽しかったあの頃は、笑ってそう尋ねたが、今なら彼女の言っている意味がわかったような気がする。
 こんなメールが届いても、すぐに電話もかけてやれないくらいだから。
 彼女から、こんなメールがいつか来るとは、わかっていた。
 仕事が忙しくなると、なかなか会う時間も取れないし、たまに会っても、仕事が気になって上の空になってしまう。
 ワーカホリック。
 彼女はからかい半分、皮肉半分で俺をそう呼んだ。
 そこまで仕事中毒とは自分では思っていないけど。
 ただ、目の前のことに夢中になると、それしか目に入らないのだ。
 それが仕事であっても、趣味であっても。
 しかし、女性は、どうやら、同時にいろいろなことを考えることが出来るらしい。
 昼飯を食べながら、「今日の夕食は何にする?」なんてことを平気で聞いてくるくらいだ。
 今、昼飯食ってるだろ?今食べてるもの以外に、他の食べ物のことなんて、思いつかない。
 一つのことしか考えられない俺が不器用なのか?
 だから、何かに没頭している時、他の全てのことが消えてしまう。
 俺の中から、彼女の存在が消える瞬間を見るのは、淋しいのだと、彼女は言った。
 別に、君のことを忘れているわけではないよ。
 そう答えたが、彼女は首を振った。
 忘れるより、ひどいよ。目の前に私がいるのに、あなたには私の姿が映っていないから。
 じゃあ、いつも、君の事を想っていなければならないのか?
 そうじゃない。ただ、あなたの片隅にいるだけでいい。でも、それすらいなくなる時が、あなたにはある。
 彼女は、すぐに、俺の中の自分の存在を確認したがる。そうしないと、不安なのだと言った。
 どうしてそんなことを考えるのだろう。
 時々、そんな彼女の態度に腹が立ち、何度かケンカを繰り返した。
 やがて、そのケンカすら面倒に感じ始めた時、お互いの気持ちが離れたことに、2人とも気がついていた。
 その時なら、修復の余地もあったのだろうけど。
 しかし、お互いに、その努力を怠った。
 2人とも、プライドだけは高かったのだ。
 どちらかが、お互いを認めてくれる筈。いや、認めるべきなのだと。
 そんな考えは、俺にも彼女にもあったと思う。
 プライドの高さが、いざという時、自分の邪魔をする。それを、2人とも知っていた。俺たちは、考え方も性格も、よく似ていた。似てはいたけれど、根本的に、俺は男であり、彼女は女だった。その違う部分だけは、どうしても理解できなかった。
 結果、次第に、連絡が遠ざかり、このまま自然消滅かと思い始めたが、結局、彼女はきちんと幕を下ろした。
 それが彼女のやり方だった。
 いつか、彼女の方から別れを切り出すだろうと思っていた。
 しかし、いざとなると、それは、全く現実味を帯びていなかった。
 携帯に届いた、短い機械文字。
 それは、まるで、全く知らない人から届いたメッセージのように、俺の心には届かなかった。
 本当は、これは彼女からのメールじゃないのではないだろうか。
 そんなことすら考える。
 あまりに薄っぺらな感情。
 俺は、事務所内を見回した。
 何人か、まだ残って仕事をしている。
 残業時間というのは、就業時間と違う空気が流れている。
 就業時間内だと、電話の応対や、社内のもろもろの雑用など、雑音が多くて、仕事にだけ集中できない。だから、残業中の方が仕事がはかどるのだが、時間内のように規律に縛られないので、みな、音楽を聞いていたり、煙草片手にパソコンに向かっていたりする。(基本的には、喫煙場所以外での煙草は禁止だ)
 それぞれが、個々の時間に没頭している。
 そんな中、俺が、たった今、彼女に振られたなんてことを知っている人は、いない。
 この空間は、今、誰ともつながっていない。
 不思議なものだな。
 俺は、携帯を机の上に放り投げた。
 ブラインドの向こうの青い満月は、白銀の光を振り撒いている。
 あの月を見て、彼女は、このメールを書いたのだろうか。
 冴え凍る月、と呼んだあの日の俺を思い出して?
 そして、おそらく、俺から、電話なりメールなり、返事が来ることを待っているだろう。
 わかってはいても、今は、携帯を手に取る気になれなかった。
 いろいろ考えなくては、と思うものの、うまく言葉がまとまらない。
 俺は、ぼんやりと、青い満月を見つめていた。

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